和牛のいる生活

北海道で牛飼いの勉強中です。

ぶくぶく考える / 永井玲衣「水中の哲学者たち」

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こんばんは。秋の気配が深まり、朝晩はかなり寒くなってきました。
来週あたりからまたグッと冷え込むようですね。

先週、永井玲衣「水中の哲学者たち」を読み終わりました。同級生の書いた本を読むというのは初めてで、新鮮でした。
まず装丁がかわいい。本屋さんでこの表紙が平積みされていたら思わず手にとってしまう。プールに潜って天井を見上げているような、そんな感じ。
哲学というとなんだか難しそうなイメージがあるけれど、哲学の入り口はちょっとした瞬間に見つけることができて、そこから中をのぞいて潜っていけば、誰にでも触れることのできるものなんだなあ。

哲学は、ある種の普遍性を目指す営みである。基本的には哲学的な問いを立てて、真理を追求していくわけだが、ひとそれぞれですね、で終わるのではなく、どの地点ならひとびとと共有することができそうか、何なら普遍性を見出すことができそうか探求する。(p.226

これを読んで、高校のとき英語の授業で習った「不変の真理」という言葉を思い出しました。水が100℃で沸騰するとか、地球は自転しているとか、過去も今も変わらず、未来においても変わることのない現象を「不変の真理」と呼び、これらについては現在形を使いましょうという文法です。
さらに、大学に入りたてのころ「理系と文系の違いは、人間が関係しているかしていないかだ」と教わったことも思い出しました。物体や生物、天体、化学物質などが引き起こす現象を解明していくのが理系であり、文学や歴史、法律といった人間が作り出したものを解明していくのが文系であると。
そう考えると、哲学は文系に分類されるけれど、哲学において言語化しようとしているものは人間の心の根っこにあるもの(≠人の手によって作られたもの)であり、根っこのどの部分を「不変の真理」とするかを定義していくという理系チックな一面もあるな~と思ってみたり……

本書にはさまざまな問いが出てくるので、おのずと私もそれらの問いについて考える事になります。
高校生のころ、授業で「生きる意味とは何か」と聞かれたことを思い出しました。
問いに対する答えをノートに書いて提出するシステムで、私は「生きる意味を考え続けること、それが生きる意味だと思います」とカッコつけたことを書きました。
先生は親切にこの文章にアンダーラインを引いて(「いいね!」という意味)返却してくれましたが、このときのちょっとイキった気持ちを今でも思い出します。笑
結局、今でも生きる意味についての答えは出ず。私は世界は大きな舞台で、生きている間は舞台に立っているイメージを持っているので(だから死んだ人も舞台裏にいて、必要があれば別の姿でまた舞台に出たりする)、自分の出番を全うするために生きてると言えるかも。じゃあ具体的にどうしたら全うできるの?と聞かれたら返事に詰まるわけですが……

同じ生きる意味について、本書では小学6年生の女の子が「死ぬために生きてるんだよ」と発言しています。死ぬため…この世に生を受けた以上、確実に訪れるそのときのために生きている、そういうことなのかもしれない。
最初の方に出てくる「死んだらどうなる」という問いに対する「実は、生まれ変わる瞬間がとてつもなく快感で、私たちはその瞬間のために生きているのでは?」という趣旨の発言もおもしろかったなあ。

また、「友達の人生を歩めないのはなぜ」という問いも印象的でした。
本書には筆者の子どものころの思い出がよく出てきますが、私は筆者と幼稚園から高校までを同じ学び舎で過ごしたため、描かれているシーンをとても鮮明に思い起こすことができます。同級生ならではの楽しみ 笑
その中でもっとも衝撃的だったのが、彼女がお祈りの時間(カトリック系の学校だった)に神様に見つけてもらうためにあえてアゴをしゃくれさせていた、という告白でした。
なぜなら私もまったく同じことをしていたからです。私の場合は、お祈りのポーズは取っていましたが、心の中で「神様、神様ーーっ!」と大げさに呼びかけたあと「…なんでもありませ~ん」ととぼける、という方法でした。
物心ついたときから「神様はなんでもお見通し、どこにいても見ていてくださる」という教育を受けていたので、ものすごくピュアに、ナチュラルに、上空から私たちみんなを見下ろしているイメージを持っていたのだと思います。
まさか自分のほかにも同じようなことをしている友達がいるとは思わなかったし、ぱっと見普通の「お祈りの時間」に少なくとも2人神様を試しているの、笑える。

本の中で描かれる学校でのひとコマはどれもちょっとした瞬間で、私にもシチュエーションは違えど印象に残っているさまざまな瞬間があって、一緒に学校生活を送った仲間ひとりひとりがハイライトのような場面を持っていると思うと、とても不思議な気持ちになりました。
電車に乗っているとき、まわりにいる人々を見ながら「この人ひとりひとりに家族がいて、めちゃくちゃ嬉しい瞬間があって、怒りに震える瞬間があって、しょうもないことで笑ったり、たまに人生に絶望したりするのか……」と思うことはあっても、同じ考えを友達についても適用したことがなかったからです。
私が知っていたつもりの友達、家族でさえも、私にはまったくわからない。
そのことに気づいて、「『見る』をつづけていくと、世界はまた、見えなくなる」とれいちゃんが書いた理由が分かった気持ちになります。
飽きるほど聞いたポルノグラフィティサウダージ」の歌詞に「時を重ねるごとに / ひとつずつあなたを知っていって / さらに時を重ねて / ひとつずつ分からなくなって」という歌詞があったのを思い出しました。

なんだか着地点がよく分からなくなってしまいましたが、考えごとをする、それを他者と対話として共有する、という体験はとても豊かな体験だと思いました。
田舎にいるとそういう機会が少ないため(田舎の人は特に「目に見える成果」を好む気がします)、小さな考えの水たまりを無視せず、ゆっくり潜ってみたいなあ。

題材は哲学なんだけどまったく難しくなく、さくさく読み進められて、ときにハッとさせられる楽しい本でした。
雰囲気はれいちゃん(思い返せば私もレイチェルって呼んでた気がする!)のブログ( はい哲学科研究室です )を読んでもらえればすぐにわかると思います。

本棚に同級生の名前があるというのはなんかちょっとくすぐったい気分。
めちゃくちゃ長くなってしまいました。明日からまた頑張りましょう~!